番組が放送された時からこういう流れが起こるんじゃないかと思ったけど、案の定・・・
「生の尊厳を否定する」ねえ・・・
じゃあ、「死の尊厳を否定する」のはOKなんですかね?
本当に昔からよく分からないんですよね。
「生きていたい人から生の機会を奪うことは許されない」←わかる。
「死にたい人から死の機会を奪うことは許される」←これ、わからない。
それこそ人の尊厳を真っ向から否定してるじゃん。
人は自分が希望して生まれてきたわけじゃないからなあ
気付いたらこの世にいて、それでものすごい苦行を強いられるような人だっているわけじゃん?
例え病気じゃなかったとしても「生きていたくない」って思って生きるのを自ら放棄したとしてもそれを責められないよなあと思う。逃げたっていいじゃん。
多分、耐えられる能力とかレベルとかは人それぞれだもの。Aさんにとっては何ともないことでもBさんにとってはこの世からリタイアしたい程の苦痛であったりするんです。
痛みや悩み、苦しみの感じ方は人それぞれ。その人にとって「生きていられない程の苦痛だ」と思ったら実際その位に辛いんです。
物凄く恵まれているように見える人でも、「その恵まれた環境が逆に苦痛だ」って感じて本気で苦しんでいたら、それは貧しくて苦しんでいる人とベクトルが異なるだけで、二人とも同等の苦しさなんです。
だから、苦しんでいる人を責めないで欲しい。甘えだとか、贅沢だとか、世の中にはもっと苦しい人がいる、それでも懸命に生きているんだから見習え。とかね。
他者と比較するものじゃない。他人と自分を比較するものじゃない。
「その人にとって」の喜びや悲しみ、それこそが真実なんですよ。だって、他人の感情は体感出来ないもの。想像することは出来ても、実際に他人が感じているそのままに自分が感じることは不可能だからさ。
この「彼女は安楽死を選んだ」の主役。多系統萎縮症を患ってスイスに渡った小島ミナさんを取材した本を読んで、すごく印象に残っているミナさんの言葉があるんだけど、
「もしも自分が末期がんだったら安楽死を選ばない」っていう言葉ね。
死期がある程度予測出来て、今だったら緩和ケアとかも取り入れられるようになってきていて、
セデーションだっけ?あれも合う合わないがあって全く緩和できないケースもあるにはあるらしいけれど。
でも、頭の中はクリアなのに身体が動かなくなっていく神経難病は、癌とかよりもずっとずっと残酷だと思うなあ。
身体を動かせない、その内声も出なくなる、まぶたを開ける筋肉もなくなれば目も閉じたままでしょ。真っ暗。いわゆる「閉じ込め」と言われる状態。
何も伝えられない。どこか痒い箇所があっても伝えられないから掻いてもらえない。
一人暮らしの自宅で高熱を出した時にベッドから起き上がれなくなったことがあったけれど、あれだけで十二分に辛かった。それ以上に何も動かせない状態がずっとずっと続いて、しかもその終わりが分からないって・・・予測さえたたないって・・・
ミナさんは「ありがとうもごめんねも言えなくなる」って言っていた。家族や介護してくれる人たちに何も伝えられず、ただ機械に生かされているだけの日々を送る。
それを想像したら「安楽死は駄目だ」なんて言えるのかなあ?それ言える人ってサイコパスなんじゃないの?って思っちゃう。
他人の気持ちを自分の気持ちと同じように尊重できるようになりたいものです。
そこに自分の気持ちや感情を介入させない。
特に私は自分にとっての当たり前が他人にとっても当たり前だと思うタイプだし、それを他者に強要してしまう方なので、これから本当に気をつけないとなって思う。
他人を、他人の考えをちゃんと尊重することが出来れば、それは自分自身を尊重することに繋がるような気がするからです。
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